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2019.10.17 | 建築

私の好きな”かたちと風景” ⑫横浜地蔵王廟

私の好きな “かたちと風景” ⑫横浜地蔵王廟

横浜市指定有形文化財の地蔵王廟は、中華義荘という中国人墓地の入口に建ち、礼拝を行う霊廟のことをいう。安置されているのは地蔵王である。地蔵王は、中国では地獄からの救済を本願とする菩薩として7世紀後半から信仰されるようになり、仏教では地蔵菩薩に共通するとされる。
廟は、木材とレンガを併用した木骨煉瓦造で、明治25年5月着工、10月竣工である。短期間で完成したのは、前年に木材、木部の彫刻、金物などの建築材料を中国に発注しておき、船で持ち込んだことで可能になったのではないかとされている。
横浜居留地の中国人墓地は、初めは山手の外国人墓地、明治6年に別の場所に移り、明治25年に横浜の中国人商人により、現在地に中国人墓地と地蔵王廟が誕生する。
配置は、中国(南西方向)や死者冥界(西)を意識するように北東方向に正面が向くとされる。平面は、中庭を中心に、入口のある門庁という建物と、中庭を挟んだ対面に正面となる正庁という建物があり、門庁と正庁は中庭両側の側廊で繋がれたロの字型となる。正庁は、地蔵王の厨子のある正堂を中心に両側に位牌棚のある位牌堂がある。ロの字型の形式は、中国の南方の廟の形式で、広東省や台湾に見られる。


構造は、柱と間柱を立てて外側に斜材を打ち付け、斜材面に煉瓦を積み、室内は石灰モルタルで仕上げている。つまり、煉瓦壁は意匠的な役割を果たしている。煉瓦壁は、外側から螞蝗攀(まこうはん)と呼ぶ金物で留めて安定させている。螞蝗攀は、蛭(ヒル)が壁をよじ登る姿に似ているために名付けられたという。
横浜には、外国商人のもとで生糸や茶の取引に従事していた中国人や単身で横浜に店を開く中国人がいたが、清朝政府から幕府との交易を認可されていた中国の寧波や福建の商人に対して、広東の商人は低い地位であったとされ、横浜に広東の人々が多く訪れた一因とされている。関東大震災で亡くなった人々の多くは、ここで供養されたとされるように、明治32年までの居留地の建築が数多く倒壊した中で地蔵王廟は残ったのだ。
地蔵王廟は、中庭に入り、そこに差し込む光と共にゆったりとした時の流れを感じることができる。墓地の入口に建つので人通りも少なく、落ち着いた雰囲気に浸れる。学生時代に初めて触れた修復現場であり、恩師と友人が修復に関わっている思い出深い場所でもある。背面の墓地からは、根岸競馬場一等馬見所跡を望むことができる、おすすめの場所である。

参考:地蔵王廟修復工事報告書、中華会館、1997

 

 

博士(工学)、有限会社花野果 代表取締役
二村 悟 Satoru Nimura

受賞歴:O-CHAパイオニア学術研究奨励賞 受賞、第47回SDA賞 サインデザイン奨励賞・九州地区賞特別賞 受賞、第5回辻静雄食文化賞 受賞ほか
静岡県掛川市 (旧大東町) 生まれ。博士(工学) (東京大学)。
東海大学大学院博士課程前期修了。元・静岡県立大学食品栄養科学部 客員准教授。
現在は、有限会社花野果 代表取締役、専門学校ICSカレッジオブアーツ 非常勤講師、日本大学生物資源科学部森林資源科学科 研究員・非常勤講師、工学院大学総合研究所 客員研究員。
主な著書:水と生きる建築土木遺産 彰国社 2016、日本の産業遺産図鑑 平凡社 2014、食と建築土木 LIXIL出版 2013、図説台湾都市物語 河出書房新社 2010
花野果 HANAYAKA https://tatemonoxxx.amebaownd.com/

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