生活文化創造都市推進事業

生活文化創造都市ジャーナル_vol.13 ファッションタウン桐生推進協議会の22年

 石原 雄二氏 

桐生商工会議所 専務理事 

 

 

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桐生マフラー・ストールの展示

 

 

1.日本ファッション協会からの電話

 平成5年(1993)は桐生商工会議所にとって特別な年であった。3年前に創立50周年を迎え、記念事業としての新会館建設事業が始動し、この年の4月27日に上棟式を終えていた。昭和15年(1940)の創立以来、歴代会頭の夢であったのが自前の会館建設。バブル崩壊後、年を追って厳しくなる経済状況のなかでは考えられないほど会員事業所からの寄附を得て、待望の上棟だった。

 大型連休が明けた5月20日、10月末の会館完成に向けて多忙を極めていた高草木茂専務理事のもとに一本の電話がかかってきた。(財)日本ファッション協会の石井満事務局長からであった。「桐生でぜひ『都市ファッション化モデル地域計画』を策定してもらえないでしょうか」、石井局長は開口一番こう切り出した。同協会はこの時、全国の繊維産地7都市を対象にファッションタウン化事前調査を行い、5月に研究報告書をまとめたばかりだった。「初年度は生産型都市として桐生市、消費型都市として広島市にファッションタウン・ビジョンを策定してもらいたいと思っています」。さらに石井局長は「通商産業省とも相談しているのですが、ファッションタウン・ビジョン化研究会の藤原肇委員が強く桐生を推されているのです」と付け加えた。

 

2.ファッション産業都市とファッションタウン

 当時、通産大臣の諮問機関である繊維工業審議会は「新繊維ビジョン」を策定しており、その中の大きなテーマが繊維産地問題であった。新興国の追い上げは必至であり、日本で残れる産地は数少ないと見られていた。国は工業的視点で捉えた「繊維産地」では国際競争力が失われるとして、「産地」対策としての産業政策から地域政策としての「ファッション産業都市」または「ファッションタウン」構想に政策転換を図り、地域ぐるみの産地生き残り方策を模索していた。

 情報化を軸として複雑で無駄の多い繊維製品の流通構造を緩やかに改革するとともに消費者を刺激するような新たな価値・デザイン・機能を持つ商品や革新的技術の開発、加えて「地域に繊維産業があることを生かして個性的で内発的なまちづくり」を進めていくことがファッションタウン構想の出発点であった。

 この考えにいち早く桐生産地の業界関係者は着目した。平成5年3月に(財)広域関東圏産業活性化センターと桐生市、桐生繊維振興協会がまとめた「桐生地域繊維産業活性化調査報告書」には地域の将来展望として「ファッションタウン桐生の創造」が提言されていた。日本ファッション協会のビジョン化研究会とは別の調査事業であったが、「ファッションタウン」は桐生活性化に向けての特別なキーワードとなる可能性を秘めていた。

 

3.FTビジョン策定作業がスタート

 

 日本ファッション協会からの打診を契機に桐生のファッションタウンに向けての取り組みは急展開していく。高草木専務理事は、6月8日に商工会議所、桐生織物協同組合、地場産業振興センターの専務理事、桐生市経済部長で組織する産地振興協議会でこの問題を提起、受け皿を商工会議所とすることの合意を得た上で、30日に石井局長を桐生に招いて事業説明会を開いた。商工会議所からは中枢メンバーの正副会頭、部会長、委員長のほか産地振興協議会幹部らが出席した。桐生地域のビジョン策定にかける地元の熱意が呼びかけたメンバー構成に表れていた。

平成6年3月に完成した桐生のファッションタウン・ビジョン

 説明会の席で石井局長は「計画策定にあたり会議所でどんな体制を組むのかが最も重要な第一歩。地元にシンクタンクのようなものがあれば良いのだが」と投げかけた。しかし、当時の桐生にはそのような機能を持つ組織はなかった。報告書の作成は平成6年3月まで、時間との勝負だったが、高草木専務はすべて地元委員の力で作ろうと考えていた。

 桐生商工会議所は「都市ファッション化モデル地域計画事業」地域委員会(委員長=閑春夫群馬大学前工学部長・委員16人)と専門委員会(委員長=青島縮次郎群馬大学教授・委員15人)を立ち上げビジョン策定作業をスタートした。第1回目の委員会開催はすでに9月半ばを過ぎていた。

 

4.すべて桐生のメンバーで

 

 日本で初めてつくるファッションタウン・ビジョンであり、ひな型があってそこに誘導すれば出来るようなものではなかった。桐生で考え、議論し、構想を描き、さらに具現化を図るビジョンでなければならなかった。地域・専門委員会では講師を招いての講演会や視察研修などを含め8回にわたる会議を開き、桐生についての資料収集やヒアリング調査、アンケート調査など様々な面から検証した。その作業のなかで桐生の歴史、文化、産業など素晴らしい資源や特性が改めて認識されるところとなり、白熱した議論が続いた。

ビジョンは平成6年3月にまとまった。①織都・桐生が育んだ歴史、文化、風土を生かしたファッション都市空間の創造②桐生が内在する諸々の資源の整合化とシステムの再構築③生活文化都市・桐生を支える多彩な人財の育成―を三つの柱とした。多くの専門家のアドバイスは受けたものの、すべて桐生のメンバーで創りあげたビジョンだった。委員会の様々な提言を集約したのが「ファッションタウン化施策体系」であり、縦軸に「産業振興」「生活文化」「交通・情報網」、横軸に「空間創造」「システム構築」「人材育成」を据えて、各フレームに提言を当てはめ9分野68項目の施策体系にまとめた。

地域の資源を生かした内発型の地域活性化がビジョンの生命線であり、大きなポテンシャルを持つ桐生が自信と誇りを甦らせ、産学官民が一体となって進めるまちづくり運動の提言。当初の目的であった産地活性化の枠を超え、トータルなまちづくり構想になった。

 このビジョンから桐生のファッションタウンへの取り組みは始まった。桐生のファッションタウン前史と言えるものであり、紙面の多くをこの部分に費やしてしまったが、ファッションタウンに桐生の未来を託した多くの関係者の熱い思いを書き留めておきたかったのでご容赦いただきたい。

 

5.「絵に描いた餅」にはしない

 

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ビジョン発表会で挨拶する増山作次郎会頭

 平成6年4月、前年に落成したばかりの桐生商工会議所会館の一室でビジョンの発表会が行われた。増山作次郎会頭は「“絵に描いた餅”には決してしない」と強い決意で構想の具現化を語った。構想の推進母体となる産学官民の組織・ファッションタウン桐生推進協議会が発足するのは、この時から3年以上も後のことである。

 この間、「都市ファッション化推進懇談会」を立ち上げての構想具体化の検討、日本ファッション協会との共催による「桐生ファッションタウン・シンポジウム」の開催、事業者・生活者アンケート、「街とあなたのファッション度調査」、「桐生再掘・資源調査報告書」、「ファッションタウン写真コンテスト」などビジョンを補完するための地道な活動を続けた。

 日本ファッション協会の強力なサポートもあった。平成7年3月に東京で開催した「ファッションタウン・サミット」には大勢の桐生のメンバーが参加した。イタリア繊維産地視察報告で福井昌平氏(ファッションタウン推進委員)からは「小さいこと」「美しいこと」そして固有の「アイデンティティ」を兼ね備えた21世紀型の産業都市がファッションタウンであることを学んだ。シンポジウムでは、「ファッションタウンはライフスタイルの創出」(泉眞也氏)、「地場で作っているものをその土地で買える創費都市」(山口貴久男氏)、「生産から消費までを含めた優れた街の概念。コンパクトシティ、自己完結型の街」(望月照彦氏)、「生産と生活の場の一体化、街の中に人が住み、中心部を大切にした街づくり」(伊達美徳氏)など各委員から重要なキーワードを示された。桐生のビジョン策定を後押しされた藤原肇氏は5つのポイントとして①産地の自立(ビジョン作り)②他産業とともに考える③ファッションファクトリー化④長い視野と展望⑤地場産業の地域での認識―を挙げ、ここ数年がやる街とやらない街の分岐点になると語った。

帰路の東武特急りょうもう号の車内、真っ黒にメモを書き込まれた資料を片手に桐生の中核メンバーたちは熱い感動に包まれていた。「やはり桐生のファッションタウンを推し進めなければいけない」皆がそう思っていた。サミットへの参加は桐生の動きを加速させた。

 

6.ファッションタウン桐生推進協議会の発足

 

 平成9年5月14日、ファッションタウン桐生推進協議会の設立総会が開催された。会員には一般市民はもちろん産学官から幅広いメンバー366人(団体)が集まった。初代会長には増山作次郎会頭が就任、「この会が桐生地域発展の推進力になることを念願している」とコメントを寄せた。初代運営委員長には山口正夫氏が選任され、生活文化委員会、産業活性化委員会、まちづくり委員会、情報委員会の4専門委員会を置き、事業を推進していく体制を整えた。山口委員長はビジョン策定時から委員として参画、推進懇談会の座長を務めたまさに桐生のファッションタウン推進の要となる人物だった。現在は桐生商工会議所会頭を務めている。

 推進母体としての協議会の発足で、大きな市民運動が始まったが、それに拍車をかけたのが同年10月30、31の両日開催された「ファッションタウン・サミット桐生‘97」だった。ファッションタウン構想に取り組む全国の都市が一堂に会する巡回型会議の第一回目が桐生の地で開催された。日本ファッション協会のファッションタウン推進委員の泉眞也委員長をはじめ全委員の主導により桐生の産業・文化を訪ねるテクニカル・ビジットツアー、桐生夜間大学、基調講演、分科会など多彩なプログラムでファッションタウンの大きな可能性を示し、1300人の参加者に深い感銘と希望を与えた。

 

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ファッションタウン桐生推進協議会の設立総会
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ファッションタウン・サミット桐生97のプログラム「テキスタイルin桐生」

 

7.委員会・プロジェクト活動の展開

 

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のこぎり屋根工場の活用・保存を目指したシンポジウム

 4つの専門委員会は具体的なプロジェクトに取り組み始めた。その活動は20年を越えた現在に至るまで継続されている。主な実践例は次の通りである。

・桐生ファッションタウン大賞によるまちづくり貢献者(団体)の顕彰

・ファッションタウンわがまち風景賞による優れた景観・建造物の顕彰

・商店街一店一作家(一工場)運動による中心市街地の賑わい創出

・ノコギリ屋根工場の全件調査とその活用による産業観光の推進

・フィールドワーク桐生による伝統的建造物の清掃作業

・桐生うどん会の組織化による桐生うどんの全国発信

・桐生ファッションウィークの立ち上げと運営支援

・桐生の子どもたちを対象にした未来創生塾の実施(感性教育、親子で学ぶ新しい教育のかたち)

・連続郷土講座「桐生学」の開催

・「音楽と食の夕べ」の開催によるファッション交流空間の創造

・桐生の路地裏活性化の研究と「路地裏探検隊」の実施

・郷土食の掘り起こしと実演販売(子供洋食、ぎゅうてん)

・桐生を訪れるデザイナーたちの窓口業務

・桐生まちなかマップ・産業観光マップの作成と発行

 これらの主な実践例は、それぞれに委員会・プロジェクトメンバーの熱意と企画力、行動力に支えられたものである。そのベースにあるものは当初のビジョンにある「地域資源を活用した内発型の地域活性化」であり、自らが創ったビジョンであるという思いである。

 

わがまち風景賞の選定活動
わがまち風景賞の選定活動
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郷土色の掘り起こし、ぎゅうてん販売会

 

 

8.22年目を迎えたファッションタウン桐生推進協議会

 平成29年10月に協議会は創立20周年記念式典を開催した。テーマは、めざせ「小さな世界都市」。当日、会場に駆けつけていただいた福井昌平氏が20年前に提唱された言葉である。「小さくとも個性が光り、世界に誇り得る産業都市としてのリードとソフトを有し、産学官市民が協同して産業づくりと街づくりに積極的に取り組んでいる都市」をあらためて目指していこうというものである。記念事業として桐生マフラー・ストール・プロモーションショーを開催し、桐生マフラーのブランド化を通して桐生産地の再生に取り組んでいく試みを発表した。山口会長(会頭)は「全国的に地域資源を活用したまちづくりがスタンダードになっているが、ファッションタウン構想は、なお新しいまちづくり構想であり、地方創生につながるもの」と挨拶のなかで語った。

 同じく式典に出席していただいた望月照彦氏からは、「桐生を支えてきたのは人間力と文化力が融合した『人文力』とこれまで培ってきた社会叡智(ソーシャルウィズダム)、これからも折れない心(レジリエンス)を持ち『桐生の未来を復元』してほしい」との言葉をいただいた。

 

 ビジョンの策定から協議会立ち上げに至る活動、発足後の広範な活動、それぞれの時代の課題に取り組んだ多くの人たちの思いが引き継がれ現在につながっている。22年目を迎える桐生のファッションタウンのこれからはどうか。日本ファッション協会の推進委員を務めた地元の故森山享氏は桐生ファッションウィークや景観への配慮、産業観光への関心醸成などの成果を評価しつつも、桐生地域の基幹産業再構築戦略を策定する必要性をファッションタウンに求めていた。

 真の地方創生につなげていくために、地域資源のさらなる磨き上げと地域アイデンティティの明確化、幅広い産業関係者の積極的な参加、ファッションタウン構想の継承と人材の育成など課題は多い。全国のファッションタウンづくりに命をかけて取り組み志半ばで倒れた故藤原肇氏の「ファッションタウンは市民、産業、行政が一体となって共通の地域の夢を『ものづくり』と『まちづくり』と『くらしづくり』を連動させながら実現させようとするユニークで日本独自の地域再生理論であり実践運動である」という言葉をもう一度噛みしめたい。

(文中の人物の役職名は当時のもの)

 

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20周年記念事業のマフラー・ストールプロモーションショー

 

(写真提供:桐生商工会議所) 

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