授賞案件

日本クリエイション大賞2010 授賞案件

日本クリエィション大賞2010 大賞

路面電車や自転車シェアリングでCO2削減と中心市街地の活性化を両立

富山市 殿

人口42万人を抱える富山市は、平坦な地形から市街地の郊外拡散が進み、自動車への依存が高く、1世帯あたりの自動車保有台数、ガソリン消費量は県庁所在都市で全国第2位。

その結果、公共交通利用者は減少し、それに伴い運行本数が削減され、公共交通の衰退が進んだ。公共交通が不便になる一方で、お年寄りなど車を自由に使えない市民が3割を占め、今後その割合が高まっていく。移動手段の改善は、急務となっていた。

2003年5月、利用者が激減し、存続の危機にあったJR富山港線について、市長は公設民営によるLRT(次世代型路面電車)化の決断を下した。決断の背景には高齢社会に対応したまちづくりの必要性があった。そこで打ち出されたのが“串とお団子のまちづくり”、串とはLRTなどの公共交通、お団子とは徒歩圏のこと。多数の駅周辺で開発を進め、徒歩圏に都市機能を充実させ、複数のお団子を串刺しにする公共交通を充実させることでコンパクトシティを目指す計画である。

市長は事業の説明など、タウンミーティングを3年間に108回開催し、市民に理解を求めた。民間にも出資を募り、第三セクターの設立やJR西日本との協議など、お役所仕事ではな いスピード感で異例ずくめの事業を進め、2006年4月に、富山駅北から岩瀬浜まで7.6kmの区間を走る「ポートラム」を開業した。新駅を5箇所設置、運行本数を大幅に増やし、利便性 を向上させた結果、利用者数は平日で約2.1倍、休日は約3.7倍に増加、そのうち約12%が自動車からの転換である。また日中は、交通弱者であるお年寄りの足としても役立っている。

2009年12月には、中心市街地活性化と回遊性の確保を目的に、市内電車(富山地方鉄道)を延伸、接続して環状線化し、「セントラム」として開業した。セントラムは富山駅南側の中 心市街地を約20分で一周する。セントラム開業後から市内電車全体の利用者数は約11%増え、中心部に住む人も増えつつある。さらに、2010年3月には24時間利用可能な自転車シェアリングシステム「アヴィレ」を導入するなど、次々と新しい取り組みを進めている。

ポートラム、セントラムともに、車両や電停、ベンチ等のトータルデザインにより、魅力ある景観づくりに貢献し、観光資源にもなっている。街を走る路面電車の姿は、城跡や立山連峰 と調和し、富山のまちに新たな魅力を付け加えた。環境に良いからといって市民に不便を強いるのではなく、公共交通が便利になって、まちが賑わいを取り戻し、市民からも高い支持を 得ている。

今後、2014年の北陸新幹線開業に伴う富山駅の高架化に合わせ、ポートラムとセントラムを接続し、南北の路面電車の一体化を図り、さらに公共交通を便利にしていく計画である。

自動車に依存し、公共交通が衰退してきた地方都市で、将来の人口減少や超高齢社会を見越し、公共交通を軸としたまちづくりによって、CO2排出量の大幅な削減と街の活性化を 両立させる取り組みは、同じ悩みを抱える全国の地方都市に一歩踏み出す勇気を与えることだろう。

 

01

日本クリエィション大賞2010 ネバーギブアップ賞

 トラブルを乗り越えて帰還した「はやぶさ」が教えてくれたあきらめない大切さ

宇宙航空研究開発機構 はやぶさプロジェクトチーム 殿

2003年5月に打ち上げられた小惑星探査機「はやぶさ」は、 2005年11月に目標天体である小惑星イトカワに着陸したが、 燃料漏れ、通信不能、エンジン故障など様々なトラブルに見舞 われ、何度も帰還は無理かと思われた。「はやぶさ」には低コス トで燃料の効率が非常によいイオンエンジンや、カメラ画像な どを使い、「はやぶさ」が自分で判断しながら目標に近づき姿 勢を制御する自律航法、至近距離からの小惑星の精密な観 測とサンプルの採取など、オンリーワンの日本らしい独自の技 術が集められていたが、いずれも世界初の試みであり、トラブ ルも多かったのである。

小惑星イトカワ着陸後に通信不能になった際は、プロジェ クトチームは祈るような気持ちで3億キロメートルの彼方に信 号を送り続け、46日後に奇跡的に通信が復活した。さらに、全 エンジン停止というトラブルに見舞われたときも、4つのエン ジンのうち故障していない部分の回路をつないで1つのエン ジンとし機能させた。こうしたプロジェクトチームの技術者たち の執念が実り、「はやぶさ」は予定より3年遅れたが2010年6 月13日に無事地球に帰還した。

地球から3億キロメートルも離れた天体までの往復飛行は 世界で初めてであり、持ち帰ったカプセル内からは小惑星イト カワの微粒子が確認された。アメリカなどに比べると桁違いの 低予算であったが、プロジェクトチームのメンバーは一致団結 することで、最後まであきらめない創意工夫が可能となった。

数々のトラブルを乗り越えて帰還する姿は、ユーチューブな どを通じて世界中に伝わり、応援サイトができるなど多くの 人々に夢と感動を与えた。最後に大気圏に突入し燃え尽きる はやぶさの姿を、プロジェクトチームのメンバーはもちろん、世 界中の多くの人々が感動をもって見守った。

はやぶさの帰還は、科学技術への貢献のみならず、多くの日 本人に感動を与え、未来を担う若者や子どもたちに、宇宙へ の夢とあきらめないことの大切さを印象づけた。「はやぶさ」の カプセルは全国の博物館等で巡回展示され、12月までに 32.5万人の人々が訪れた。大人たちはかつての宇宙への憧 れを思い出し、子どもたちに伝え、若者や子どもたちは日本の 科学技術を誇りに思い、宇宙や科学技術に興味を持つきっか けとなっている。

「はやぶさ」の後継機「はやぶさ2」は、「はやぶさ」同様、小 惑星からの物質を地球に持ち帰るサンプルリターン・ミッショ ンであるが、対象の小惑星の岩石は、有機物をより多く含んだ ものと考えられており、生命との関係など新しいテーマに挑戦 することになる。「はやぶさ」からあきらめないことの大切さを 学び、宇宙への夢を抱いた若者たちや子どもたちが、次の時 代には、宇宙の謎の解明や科学技術の発展に大きな力となる ことだろう。

 

02

日本クリエィション大賞2010 マイクロ・メディカル賞共同受賞

 外科手術の新領域を切り拓く日本のものづくり技術

株式会社河野製作所 殿

東京都三鷹市、国立天文台三鷹キャンパス(当時東京天 文台)の隣接地で、三鷹光器は生まれた。天体望遠鏡の製 作からスタートした同社は、天体観測がロケットや人工衛星 を利用したものに変わっていくのにつれて、観測機器の開発 にも進出していった。オゾンホールを発見した観測機器やブ ラックホールを発見したX線望遠鏡も同社の製品だという。 社員数50名ほどの町工場が世界を相手に、宇宙を解明する 一翼を担ってきた。

医療業界に進出したのは1966年。これまでに8種類の脳 神経外科用手術用顕微鏡と11種類の顕微鏡用スタンドを 開発・事業化してきた。中でもオーバーヘッドポジショニング スタンド(世界特許取得)は、狭い手術場でそれまでデッド スペースとなっていた、執刀医の背後に顕微鏡スタンドの本 体を置き、頭上から顕微鏡を保持することを考えた革新的 な装置で、執刀医の両側に助手や看護師がつくことで、手術 の効率を上げることに成功。また、アルミ合金を主原料に 60%まで軽量化、顕微鏡を重心で動くように設計したこと、 カウンターウェイトを付けたバランス方式を採用したことで、 長時間の手術も苦にならないよう30kgの顕微鏡を片手で 動かせるほど軽く操作できるものにした。緩衝材にも工夫を 凝らし、3秒で振動を吸収できる機構にした。“設計図は現 場にあり”をモットーに、現場のニーズに合わせて開発され た使い勝手の良さは世界中の医師たちの絶賛を浴び、脳神 経外科手術用の顕微鏡システムでは世界シェアの5割強を 占めるトップ企業となった。

脳外科手術は生命に直結する分野であり、同社の顕微鏡 システムは多くの人命を救ってきたが、脳外科用だけではな い。整形外科の黒島永嗣教授(帝京大学医学部)に依頼さ れ1年がかりで開発した手術用顕微鏡システム「MM50」 は、医師が25cmの作動距離をとり、50倍の高倍率で立体 的な画像が見える画期的な顕微鏡で、赤血球が数えられる 程の解像度を持つ。この顕微鏡の完成で、驚くほど傷口が小 さく身体への負担の少ない再建術が可能となった。このとき 患者の細い血管をつなぎ合わせるのに使われたのが、河野 製作所の世界最小の針と持針器である。

この他、神経と血管をつなぐ再手術によって、知覚と運動 機能を取り戻した例や、もやもや病の解明、バイパス手術な ど、今では整形外科だけでなく、脳神経外科や形成外科、小 児科等でも使用されている。

顕微鏡を使った特殊な手術「マイクロサージャリー」は日 本の得意分野の1つである。2009年に沖縄で開催された国 際マイクロサージャリー学会では、同社の顕微鏡システムの 前に使用予約が殺到し、世界中の著名な医師たちが髪の毛 程の人工血管をつなぎ合わせる手術を学びたがった。

日本のものづくり企業の強みである、創意工夫を凝らした 技術で作られた手術用顕微鏡システムは、外科手術の領域 を拡大し、多くの命を救うとともに、患部が小さく心身への 負担が少ない手術は、患者の生活の質の向上に大きく貢献 している。

 

03

外科手術の新領域を切り拓く日本のものづくり技術

三鷹光器株式会社 殿

顕微鏡をのぞきながら組織を剥離したり、血管や神経を縫 い合わせる特殊な手術「マイクロサージャリー」。河野製作所 は、時計や計測器等の部品を製造していたが、1964年にマイ クロサージャリーの第一人者である玉井進医師から依頼さ れ、手術用の針と糸の開発に進出した。

2000年、当時500ミクロン以上の血管や神経の手術は可 能になっていた。50ミクロン以下は細胞レベルで外科の領域 ではないが、50ミクロンから500ミクロンにかけては手術ので きない、全く手つかずの領域だった。その年、秋に開かれた学 会で、黒島永嗣医師(帝京大学医学部教授)から「もう少し微 小な針がつくれないか」と声をかけられた。他の医師たちはそ こまで必要ないと言ったが、医学的に価値があると考え、採算 がとれないことを承知で挑戦することにした。同社では当時、 定年退職する職人たちの技術の継承に悩んでおり、職人技に 頼らない技術力の確立が必要だったことも、新たなチャレンジ に踏み切った要因の一つだった。

開発は困難を極めた。今までの製法では作れないため、加 工のための治具・工具を新たに工夫して作る必要があった。 針を加工しようとしても静電気でくっついたり、浮いてしまうた め、弱粘性の樹脂の上に置いて加工するよう工夫した。素材 についても、一般の手術用針に使うステンレスでは強度が維 持できないため、剛性と粘り気を持つ特殊なステンレスをメー カーに開発してもらった。また、針だけでは手術ができないの で、針を持つ器具やメス、はさみなども新たに開発しなければ ならなかった。開発にあたっては、経済産業省の産官学連携 プロジェクトのスキームが構築され、顕微鏡の開発は、脳外科 手術用の顕微鏡のトップメーカー三鷹光器が担当した。

こうして3年を費やし、直径30ミクロン、長さ0.8ミリ、糸の直 径15ミクロンという世界最小の手術用針の開発に成功した。 この針のおかげで、乳幼児の細い血管など、太さ100ミクロン の血管の縫合が可能になった。たとえば、手指を切断により欠 損した場合、その状態により目立たない足指から血管とともに 皮膚組織を移植することがある。太い血管しか縫合できない と、太い血管の通っている足指の皮膚組織まで広範に切り取 らなければならないため、術後に足指に不自由が生じるなど の後遺症が残ったりすることがあった。しかし、この微小な針 によって、細い血管が縫えるようになったため、足指の皮膚組 織の切り取る範囲が少なくてすみ、ほとんど手術の痕がわか らない、後遺症の少ない手術が可能となったのである。

さらに同社では現在、手術支援ロボットを使った遠隔操作 の手術にも使えるような針などを開発中である。30ミクロンの 針を量産できるのは世界中で同社しかない。これまで日本国 内のみで販売していたが、今後は海外の医師とのネットワーク を広げ、中国やアジア、ヨーロッパなど世界で販売していくとい う。世界中の患者にとって福音に違いない。

日本のものづくりの強みである微細加工技術を活かし、創 意工夫によって開発した世界最小の針は、外科手術の領域を 拡大した。患部が小さく心身への負担が少ない手術は、患者 の生活の質の向上に大きく貢献している。

 

03b

日本クリエィション大賞2010 明日を創る若者応援賞

地方都市から若者の夢を応援

ファッション甲子園実行委員会 殿

ファッション甲子園(正式名称:全国高等学校ファッション デザイン選手権大会)は、高校生が服飾デザインを競う全国 大会。   2000年に北東北大会が初回開催され、2001年から は対象を全国に広げ、毎年開催されている。これまでに、 ファッションやクリエイションワークへの関心が高い生徒約 5万人が参加する大きな催しへと成長し、今年度、第10回大 会には233校が参加した。大会は、学校単位、生徒2名、教 員1名の計3名1組で結成するチーム対抗戦で、デザイン画 による一次審査、実際に衣装を制作して臨む最終審査から 成る。最終審査会は、8月の青森県弘前市を舞台に開催さ れ、一次審査通過の40校が、自作の衣装を自ら纏いステー ジに登場、ファッションショー形式で勝敗を争い、高校日本 一を目指す。

ファッション甲子園の最大の特徴は、固定観念や縫製の いろはに捉われることなく、瑞々しい感性を発揮し、自由での びやかな発想によるデザインを求める点。高校生の夢とチャ レンジ精神を応援し、粗削りながらも力強く、独創性に富ん だ作品に光を当てるその方針は、服飾に関する専門知識を 持たない普通校や特別支援学校の学生にも参加意欲を湧 かせ、また、学校側も、生徒の可能性を引き出すチャンスとし て注目している。更に、大会終了後に実施する交流会では、 ファッションデザイナーやファッションビジネス経営者などの 審査員が各作品に寄せる感想や評価を発表。プロの批評を 受けられる貴重な体験は、学生にとって、夢の実現に向けて 歩み始めるための大きなきっかけともなっている。

この大会を主催するのはファッション甲子園実行委員会 で、第5回大会からは弘前商工会議所、青森県アパレル工業 会、青森県、弘前市で構成する。青森から世界に広がる可能 性を模索していた青森県関係者は、クリエイティブ産業に着 目した。当時、この地に縫製工場が多数存在していたことか らファッション産業に対するポテンシャルの高さを再認識 し、ファッション振興による産業の確立、地域活性化、人材 育成への寄与、若人の夢への架け橋を担うことを目的に ファッション甲子園を企画した。大胆で奇抜と懸念された構 想だったが、ミラノも最初からファッション都市だったわけで はないと意を固め、掲げた目的を見失わず、ビジネスや教育 などに携わる多くの人たちが関わって大会を実現させた。若 人に夢を与えることで拓かれる未来を信じ、地元ばかりでな く、多くの応援団が加わり、地方から日本を元気にする取り 組みとして定着させた。現在では、地域との協働体制が拡充 し、ファッション甲子園の他にも様々なイベントやワーク ショップ、セミナーを開催、若人が築くファッション都市とし ての存在感も高めている。

描いた夢の実現に向けて一歩踏み出す。青年期にそんな チャンスに巡り合い、挑戦することは、若人の成長過程にお いて大きな意味を持ち、そして、色褪せない思い出として彼ら の心に残ることであろう。ファッション甲子園は、これからも 高校生に夢を追う素晴らしさを伝え、豊かな未来の創造を 後押ししていく。

 

04

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